千葉敦子年表

2009年9月

最近(2009年9月9日現在)、Wikipediaに乳がんで亡くなった国際ジャーナリストの千葉敦子の項目を作ろうという機運が盛り上がっているようです。Wikipediaに一旦は千葉敦子の項目が作られたのですが、それが削除されたのは、はてなキーワードの「千葉敦子」の項目をそのままコピーしており、それがキーワードの著作権を持つ株式会社はてなの権利を侵害していると考えられたからのようです。

ところで、単純な事実の羅列に過ぎませんが、はてなキーワードの「千葉敦子」の項目を書いたのは、私です。私としては、自分の書いたものがWikipediaにコピーされても全く問題ないのですが、キーワードに書いた時点で株式会社はてなに著作権を譲り渡してしまっていたのですね…。

というわけで、以前千葉敦子の伝記を書きたいと考えていた頃に作成し、ハードディスクに眠っていた千葉敦子の年表をここに掲載します。間違いがあるかもしれませんので、ご指摘があれば反映したいと思います。このままでは引用が多すぎてWikipediaには使えないと思いますが、自分の言葉で書き直す余裕がないので、この内容をまとめてWikipedia等に投稿していただくのは歓迎します。

なお、著作情報については千葉敦子の著作一覧: つらつらぐさを参考にさせていただきました。どうもありがとうございます。

著書からの引用部は極力そのままにしましたが、一部年号などを漢数字から数字にしています。

年表

1940年(0歳)
11月6日、上海に生まれる。(『「死への準備」日記』の著者プロフィールより)

1945年(4歳)
韓国の馬山に疎開、数ヶ月で上海に戻る。

1945年、母と私と妹の3人は、韓国の馬山に数ヶ月疎開していたが、敗戦直前に父が迎えに来て上海に戻ることになった。(『乳ガンなんかに敗けられない』p.213)

1956年?(16歳?)
日比谷高校入学?

私の通っていた高校には、ケタはずれの秀才や15歳で世界の文豪の作品を大方読破していた読書家や、英独仏の三ヶ国語を読み話せる人がいました。先生を困らせるくらい数学が出来て歌舞伎に通じていたり、すべての科目の成績がズバ抜けてよくて一流のピアニストについてレッスンを受けていたり、(略)この高校の男女生徒数がきわめてアンバランスなため、何人かの男性の愛を受けるはめになったのですが、私が未経験で、相手の自尊心を傷つけずに愛情を断ることができなかったのです。そのため、何人かの男性をひどく苦しませる結果になり、私自身もそのことで苦しみました。(『ニュー・ウーマン』p.230)

1958~1964年(17~23歳?)
学習院大学政経学部。1958年入学は浪人なしの場合。留年している? いったん婚約したが、婚約を破棄。

大学生のときに一度婚約を交わした男がいるのです。(略)私は卒業後も自分の仕事を持ち、独立したキャリアを築くつもりで、婚約者ももちろん賛成していましたが、それでもここで家庭を築き根を下ろしてしまうのは、本当に私がしたいことではないのだという認識が日に日にはっきりしてきました(略)彼に話して婚約を破棄したのです。(『ニュー・ウーマン』p.221-222)

1962~3年?(21~2歳?)
大学3年の秋、父親が死去。家計を支えるため大学院進学を諦めて就職することに決める。

大学3年生だった前年に、私の人生の計画は大変更を迫られていました。それまでは、大学院に進学して勉学を続けるつもりでいたのです。というのは、私は大学の水準に大変不満で、もっと高度のacademic background(学問的なキャリア)を持つ必要があると痛感していたからです。ところが3年の秋に父が亡くなり、のんびり勉強を続けるという態勢は不可能になりました。大学に入学してから、授業料は特待生で奨学金をもらっていましたし、その他の費用は外人観光客のガイドや家庭教師をして稼いでおり、親からは半独立の形になっていましたが、これからは家に収入を持ち込まなければならなくなったのです。(『ニュー・ウーマン』p.67)
いまも私は、あの屈辱的だった大学四年生の夏を忘れることはできません。(中略)ほとんどの社が大学卒の女性を高校卒と同じ待遇でしか雇わないというのです。(中略)悪戦苦闘のすえに、ようやくジャーナリズム関係の数社の試験を受けることができました。募集要項には大卒男子とだけ書いてある社も、人事部をたずねてネバると受験だけはさせてくれるところがありました。(中略)最初から女を区別して使うところが多く「男と給与、待遇が全く同じ」という会社はほとんどありませんでした。  結局、当時財政的に破産状態に近かった新聞社に就職を決めたのは、表面的には給与が男女同水準であったこと、(中略)初任給は同級生中最低でしたが、同じ新聞社に勤める男子社員も同じ金額でしたから苦になりませんでした。(『ニュー・ウーマン』p.66~68)

1964年(23歳)
学習院大学政経学部卒業。東京新聞社入社、経済部に配属。

 新聞社に入りまして、まず最初の大きな難題がやってきたのは入社三か月にもならないときでした。(中略)私は第一希望経済部、第二希望外報部と出しました。(中略)  ところがです、数日後に壁にはり出された事例をみると、なんと婦人家庭部配属になっているではありませんか。(中略)新聞社側ではそれまでにニュース取材部門に女の記者を採用したことがありませんでした。そして労働基準法で女子の深夜労働を禁じているから採用できないという論法を持ち出してきました。朝刊紙を出している以上、深夜労働は記者にとって当たり前になっていますから。(中略)  しかし、私は負けてはいませんでした。法律の主旨をちゃんと理解して欲しい、使用者側が深夜労働で強制するなら問題になるだろうが、こちらから志願して深夜働かせて欲しいと言っているのだから……と訴えました。  そして切り札として、もし婦人家庭部に配属されるなら即刻退社する、という意思を表明しました。(中略)  社会人一年目の試練は私に次のような教訓を与えました。前例がないという口実で拒否に出会った場合は、それまでの習慣を破るべく全力を尽くして「やってみる」こと。いつ職を失っても食べていけるような手段を身につけておくこと。女を差別することが使用者側にとっても損であることを、仕事を通じて示すこと。  ともかくも、やってみれば道が開けることもあるのだという体験を職業生活一年目にして得たわけです。その後もずっと私のキャリアは「前例を破る」ことの連続です。(『ニュー・ウーマン』p.70~74)

1967年(26歳)
ニーマン・フェローシップを得て、ハーバード大学大学院に留学。都市経済学を専攻。その後ヨーロッパ諸国、イスラエルを旅行。

都市経済学を専攻した大学院での9ヶ月は非常に充実したもので、米国国内およびカナダへ数回の旅行もした。さらに終了後ヨーロッパへ廻り、イスラエルにまで足を伸ばし、東欧・ソ連を含む4ヶ月の旅をした。この経験が私の人生観を変えた。狭い国の狭い新聞社内で一生を過ごす必要はない。世界的な規模の市場で自分の力を示すことが可能なはずだ……帰国後三ヶ月で東京新聞を退社した。(『乳ガンなんかに敗けられない』p.206)
私自身が直接中東に足を踏入れたのは、1968年夏にイスラエルを訪問したのが初めてで、カーキ色の制服に身を固めたイスラエルの女兵士や、ガザ地区のアラブ難民、また戦勝したダヤン元帥の写真を敵側の指導者と知ってか知らずか、外国人に売りつけようと走り回るアラブ人の子供たちが強く印象に残った。(『敵視の狭間で』訳者あとがき p.246)

1968年(27歳)
留学から帰国3ヶ月後、東京新聞社を退社。

新聞社を去ってすぐに望んだとおりのフリーランサーになれたのではない。まだ商品として売れるだけの英語が書けなかったので、アメリカ人の経営する広告会社にはいってニュースレリースの原稿などを書いたり、欧州の銀行相手の調査会社をみずから経営し、英米人の書くレポートを監修したりして文章力を養った。(『乳ガンなんかに敗けられない』p.207)
大学を出てから10年間に、私は1年間の大学院留学をはさんで4回転職をしています。職業は新聞記者→PRアカウント・エグゼキュティヴ→PRディレクター→調査会社取締役副社長→フリーランス・ジャーナリスト、というわけです。スカウトによる転職が2回、こちらから選んで移ったのが2回です。最初の職には3年9ヶ月、現在の仕事には7年と長いのですが、途中の職はすべて2年以内でかわっています。(『ニュー・ウーマン』p.78)
ジャーナリズム以外の分野での私の力を認めて、実際に私を二度にわたってスカウトしたのは、松岡秀太郎という日本人には珍しいタイプの実業家です。(略)彼が帝人の宣伝部の若手社員であり、私が東京新聞の駆け出し記者の時代で、私が取材に出かけて行って知り合ったわけです。彼は女性の能力に全く偏見のない人で、新しく設立した広告会社にPRディレクターとして私をスカウトしたあと、全く新しい型の調査会社を私とともに設立し、私にその運営を任せたのでした。(『ニュー・ウーマン』p.80)

1969年(28歳)
初の著書『アイデア商人』(KKベストセラーズ)

1974~75年(33~34歳)
1974年末~75年にかけて、フリーランスの国際ジャーナリストとして活動を開始している。

1974年11月ジャーナリズムに復帰。現在、”Fortune” “Asian Wall Street Journal” “Australian Financial Review” “Institutional Investor” “Asian Business & Industry” の東京特派員をつとめるかたわら、各国の新聞・雑誌に日本の政治・経済問題を寄稿している。(1976年発行『敵視の狭間で』訳者プロフィールより)
たまたま友人の英国人記者クリス・リードが日本を去ることになったので、彼が引き受けていた「フォーチュン」誌のための経済人プロフィールを引き受けて、フリーランサーとしてスタートしたのが1975年1月である。準備期間に新聞社をやめてから6年をかけたことになる。(『乳ガンなんかに敗けられない』p.207)
過去9年近く「アジア・ウォールストリート・ジャーナル」「インスティテューショナル・インヴェスター」「フォーブス」「フォーチュン」「オーストラリアン・フィナンシャル・レヴュー」といった世界各国の一流誌紙に寄稿してきた(1983年時点での記述:『昨日と違う今日を生きる』文春文庫 p.59)

1976年(35歳)
唯一の訳書『敵視の狭間で 対話/アラブ・イスラエルに愛は甦るか』 アモス・エロン、サナ・ハッサン著(TBSブリタニカ)出版。

1980年(39歳)
12月24日に左乳房に乳ガンによるしこりを見つける(『ニュー・ウーマン』『昨日と違う今日を生きる』『乳ガンなんかに敗けられない』)

 私が左乳房の上部にしこりを発見したのは、1980年12月24日の朝でした。  予備知識を持っていたので、乳ガンに違いないと判断、すぐに病院を選んで検査を受け、1981年1月28日に手術を受けました。(『ニュー・ウーマン』p.60)

1981年(40歳)
1月28日、乳ガンのため都立駒込病院で乳房切断手術を受ける(『昨日と違う今日を生きる』(角川文庫)p.164、『ニュー・ウーマン』p.60)

このときのガンは直径2センチ以下、周りのリンパ節やわきの下のリンパ節への転移ゼロで、まず再発はないもの、というのがそのときの医師の判断でした。私自身も大変元気で、その年の夏にニューヨーク・パリ旅行、その秋に韓国旅行に出ているくらいで、以前と同じ生活に戻っていました。(『よく死ぬことはよく生きることだ』)
プレスクラブの機関誌として月間の「ナンバーワン・シンブン」があるが、「ニューヨーク・タイムズ」のバック・サープは、1981年4月号に私の病気に関する記事を友情溢れる筆致で書いた。「ガン・敦子の物語」と題したその記事は、おもにガンに直面した私のジャーナリスト精神を描いたものだが…(『乳ガンなんかに敗けられない』p.222)

初の乳ガンに関する著書『乳ガンなんかに敗けられない』(文藝春秋)出版。単行本版・文庫版ともに切除前のしこりのある乳房の写真が掲載されている。

切り取ったガンの病理検査の結果からみて、再発の可能性が低いことを知らされましたので『乳ガンなんかに敗けられない』という、勇ましいタイトルの本を書いたのです。これは、乳ガン手術を受けた直後の病院のベッドの上で書き始めて、数カ月のちに文藝春秋から刊行されました。(『よく死ぬことはよく生きることだ』p.38)

1982年(41歳)
キャリアウーマンとしての生活法などを綴った『ニュー・ウーマン』(文化出版局)出版。
乳ガンに関する著書『わたしの乳房再建』(朝日新聞社)出版。

1983年 (42歳)
6月にガンが再発、鎖骨の上のリンパ節に転移(『昨日と違う今日を生きる』(角川文庫)p.164)

83年夏に首のつけ根のリンパ節にガンが再発しまして、これには放射線をかけまして退治しました。ここまでの治療は東京で受けました。(『よく死ぬことはよく生きることだ』)

渡米、ニューヨークに移住する。(『ニューヨークでがんと生きる』)

自分自身の死がそんなに遠くないかも知れないと考え始めたのは、83年の再発のときです。手術でガンが全部取れなかった、ということが分かったわけです。(略)そういう、あまり遠くないかも知れない死の可能性を知って、どうしたかといいますと、まず、そのときに計画していた、ニューヨークへの引っ越しを実現しよう、という決意でした。(『よく死ぬことはよく生きることだ』p.38)
83年の暮に東京・西麻布のアパートを引き払い、ニューヨークに移り住むにあたって、一万冊近くの蔵書の大半を友人に買い取ってもらったり、進呈したり、全国の図書館に寄付したりして処分しました(『ニューヨークの24時間』(文春文庫)p.204)

読書日記『千葉敦子のななめ読み日記』(同時代社)出版。
男女関係に関する著書『寄りかかっては生きられない』(光風社出版)出版。

鈴木健二さんと草柳大蔵さんの女性論に反発を感じて『寄りかかっては生きられない』(光風社出版・1983年、文春文庫、1989年)という本を書いています。(『ニューヨークの24時間』(文春文庫)p.190)

箙田鶴子(えびらたずこ)氏との往復書簡『いのちの手紙』(箙田鶴子との共著)(筑摩書房)出版。

1984年(43歳)
がん2度目の再発、胸のリンパ節に転移(『昨日と違う今日を生きる』(角川文庫)p.164)

引っ越して半年たった84年夏に、今度は胸の内部のリンパ節にガンが再再発しました。二度も再発するのは、大変危険な兆候ですので、今度は患部に放射線照射をしたあと、抗ガン剤を静脈から入れる化学療法を七ヶ月受けました。全身に散ってしまったかもしれないガンを退治することを目的としたわけです。(『よく死ぬことはよく生きることだ』p.10)
このときは、非常に大きな試練だと受け取りました。とにかく、三度目ですから、私の身体の中にいるガンというのは、相当したたかなヤツで、切り取っても、放射線をかけても全滅しないということが分かりました。その上、原稿がなかなか売れなくて、職業的な困難にも見舞われていましたし、従って経済的困難にも陥っていたわけです。(『よく死ぬことはよく生きることだ』p.39)

1985年(44歳)
日本人論『ちょっとおかしいぞ,日本人』(新潮社)出版。

実は、1983年の3月から10月までの8ヶ月間、腹の立つ新聞、雑誌記事を見るたびに切り抜き、不愉快な目に会うたびにメモをして、それを本に仕立てたのが『ちょっとおかしいぞ、日本人』(新潮社、1985年)という著書なのです。いえ、怒りをそのままぶちまけたり、不愉快さをこぼしたりした本ではありませんよ。(『ニューヨークの24時間』(文春文庫)p.190)

1986年(45歳)
秋にがん3度目の再発(『昨日と違う今日を生きる』(角川文庫)p.164)
ニューヨークでの生活スタイルを紹介した『ニューヨークの24時間』(彩古書房)出版。
『ニューヨークでがんと生きる』(朝日新聞社)出版。

1987年(46歳)
東京新聞の取材『ガンと闘いながら』を受ける。2月23日~25日に掲載。『昨日と違う今日を生きる』(角川文庫)に収録。

仕事は、新聞と週刊誌に連載を持っているほか、単発の記事を月刊誌に書いています。「家庭画報」に青少年とエイズの問題、「文藝春秋」にテレビニュースキャスターの話など。それから、「ウーマン・ウォッチ」という、アメリカの女性の動きを知らせる月間ニュースレターを一人で発行しています。(略)毎月何万点もの女性に関する情報をコンピューターのデータベースで検索し、その中から日本に知らせたい項目を拾い出してニュースレターにしています。(略)一部(4ページ)八千円ですので、その程度の高度な情報を必要としている人に購読者は限られます。(『昨日と違う今日を生きる』(角川文庫)p.166)

7月9日、ニューヨークのスローン・ケタリング医院にて乳ガンのため死去、享年46。

『アメリカの男と女』(彩古書房)
『よく死ぬことは,よく生きることだ』(文藝春秋)
『「死への準備」日記』(朝日新聞社)
『千葉敦子のななめ読み日記』(三笠書房知的生きかた文庫)文庫化
『ニュー・ウーマン』(三笠書房)文庫化
『乳ガンなんかに敗けられない』(文春文庫)文庫化
『いのちの手紙』(箙田鶴子との共著)(ちくま文庫)文庫化

1988年
『昨日と違う今日を生きる』(角川文庫)
『若いあなたへ!』(偕成社)
『ちょっとおかしいぞ,日本人』(新潮文庫)文庫化

1989年
『「死への準備」日記』(朝日文庫)文庫化
『ニューヨークでがんと生きる』(朝日文庫)文庫化
『寄りかかっては生きられない』(文春文庫)文庫化

1990年
『ニューヨークの24時間』(文春文庫)文庫化
『よく死ぬことは,よく生きることだ』(文春文庫)文庫化
『ニューヨークでがんと生きる』(文春文庫)二度目の文庫化

1991年以降
1991年『「死への準備」日記』(文春文庫)二度目の文庫化
1994年『母への手紙』(意識教育研究所)
1995年『ニュー・ウーマン』(三笠書房)新装版

これから千葉敦子に入門するなら

上記年表でも長めに引用しましたが、雇用機会均等法以前にキャリアを切り開いた体験記として『ニュー・ウーマン』が個人的には面白くお勧めです。『ニュー・ウーマン』でも触れられている生活の工夫系としては『ニューヨークの24時間』は『ニュー・ウーマン』後の生活法のアップデートについて書かれています。

このサイトと管理者について

yucoの個人サイトです。既婚で子ども2人。岐阜県出身で現在は東京在住。短期間ですがアメリカにも住んでいました。1998年から個人サイトを運営し、10年以上にわたってレンタルサーバにブログツールをインストールしてブログを書き、あちこちの新しいネットサービスを試したりしていました。現在はおもにTwitterとたまに長文テキストを書きたいときはNoteを使っています。


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